男性ホルモンの権化!天下人・織田信長とテストステロン

このコラムのポイント

  • 織田信長の行動や業績は、高い男性ホルモン値と関連付けて解釈できます。

  • 27歳での桶狭間の戦いの勝利は、ホルモン値絶頂期のカリスマ性によるものかもしれません。

  • 信長の茶道具への執着は、男性ホルモンの強い人特有のこだわりの表れと考えられます。

世界三大美女といえば、クレオパトラ、楊貴妃、小野小町ですよね。

彼女たちは、溢れる女性ホルモンから生まれる妖艶な女性らしさを武器に時の権力者を魅了し、歴史の流れにも大きく関わってきました。いわば、永田町を裏で操る、夜の蝶の元祖(?)です。

一方、男性ホルモンが豊富だったとされる歴史上の人物は誰でしょう?

古くは始皇帝やカエサルにはじまり、ナポレオンなどは陣地争いを促す男性ホルモンに突き動かされた最たる人物。コロンブスの新大陸発見も、冒険心に火をつける男性ホルモン・テストステロンがあったからこそです。

では、日本史上、この男性ホルモンが最も高かったのは?

やはり筆頭は、戦国三英傑の一人、織田信長ではないでしょうか。さまざまな武将が群雄割拠し、天下統一を目指して戦いを繰り返していた時代。戦略を駆使して相手の領土に攻め入り、自分のテリトリーを広げる行為が、まさに男性ホルモンの成せるワザです。名だたる武将たちの中でも、信長は頭ひとつ抜けた存在だったに違いありません。

そんな信長の生涯を男性ホルモン値と照らし合わせてみると、面白い一面が見えてきました。

一般に男性ホルモン値は20代がピークとされていますが、まさにホルモン値絶頂!の27歳の頃、信長は転機となる戦いに勝利しています。日本の戦史上、奇跡と呼ばれる桶狭間の戦いです。男性ホルモン値が高い人は、人を惹きつけるカリスマ性を持っていますが、この戦いは絶対的に不利な戦いでも主のために命をかける臣下を持っていたからこその勝利だったといえるでしょう。

信長の「こだわり」はテストステロンが関与!?

また、延暦寺焼き討ちに代表されるように、冷徹、冷酷なイメージが強い信長ですが、実は家臣思い、庶民思いのエピソードにもこと欠きません。

晩年に近い40代になるとその逸話は増えていき、とくに夫婦喧嘩をして落ち込んでいる秀吉の妻・ねねに対し、励ましの手紙を送ったことは有名です。これは安土城築城(43歳)のあとというから、信長自身も男性ホルモンと情の使い分けのバランスがとれてきた時期だったのではないでしょうか。

そんな信長は、一見、男性ホルモンと縁遠いようにも思える、日本の伝統文化・茶の湯を興隆させた立役者とも言われます。武将の間では、戦場で高ぶった男性ホルモンや気持ちを抑える意味からか、茶の湯がブームとなっていました。

茶の湯の世界を深めていくと、茶碗から掛け軸にいたるまで、すべての道具にこだわりだします。そして男性ホルモンの強い人はモノにこだわり、モノに凝る傾向が強いもの。

そんな世界に人並みはずれた男性ホルモンの権化、信長が熱中したならどうなるか? 世の中のありとあらゆる名物とされる、茶道具の逸品を蒐集する“名物狩り”を行ってしまうのです。さらに、勲章と同じように茶碗に名誉の価値を持たせて、それを利用していました。

信長は富と権力で集めた茶器の数々を、武将を集めた茶会で披露していました。その様子は現代でいうと、“モーターショー会場の超高級車が全部自分の私物”、もしくは“ミスユニバースの出場者全員が恋人”というくらいの羨ましいインパクトだったのではないでしょうか。 そんな逸話の数々が、信長の男性ホルモン値の高さを物語っています。